
三条市指定文化財八幡宮鰐口

下町遺跡出土鉄鍋鋳型

法用寺梵鐘

法用寺梵鐘に大崎の文字

法用寺梵鐘の飾り
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南北朝時代の1336年に河内国から現三条市大崎(当時、大崎保)にいもじ鋳物師が来往し、柏崎の大窪、頸城郡の青野村(現上越市大字青野)と共に、いもじ鋳物師の越後三の所在地と知られていた。柏崎市の大窪は刈羽、三島、古志、魚沼郡を、青野村は頸城郡を、大崎は蒲原、岩船郡をそれぞれ統括した。
大崎が本座の地となったのは、ここが越後下郡の最大な城下の地であり、五十嵐川があって、材料、製品の運送に便利であるとともに必要な砂や燃料を自由に入手できるからであった。
八幡宮の社宝鰐口もここで作られ、文明六年(1474年室町時代)には、岩代の国、(福島県大沼郡会津高田)法用寺の梵鐘を鋳て送っている。遺跡は下町遺跡と銘打ち、遺構、遺物が貴重な資料として多く出土した。今も西大崎地内に金川、カネ小路の地名を残している。

「金物の三条」のそち礎地は、この頃からなるべき因縁があったわけで、三条の金物、や鍛冶の技は徳川時代(江戸の初期)に入って、享保の頃から家釘(和釘)を作り始めたのが起こりのようにいわれている。しかし、これは信を置くことはできない。それは、三条が古く城下町であったこと、前記の鋳物師の本座が大崎にあり、針座、銅座.蝋座などもあり、さらに東大崎に連なる上野原に金屋、麻布谷に金ヶ人などの地名のあること、篭場の七社平に、金山神社がほうし奉祀されていたこと、また、後世三条が村上領となった当時、条東、条西に二つの鍛冶町集団のあったことを忘却しているからである。当時の鋳物師は単に鍋釜を鋳てただけでなく、鍬、鎌を造る鍛冶も行なっていた。
(渡辺行一著 三条の歴史より)
*越後三本座:出展『稿本柏崎史誌年譜上巻』
*越後の国は上杉時代までは上郡(頸城)と下郡(古志、蒲原、岩船)の二つに分称されていた。その下郡の統括根拠地が三条であった。
*鰐口:社殿、佛堂前の軒下に吊るす金属製の具、参詣者は布で編んだ綱を振り動かして打ち鳴らす。佛都、三条に大崎鋳物師が製作した鰐口がいくつも存在している筈だ。
*福島県大沼郡会津高田町 法用寺の梵鐘が三条大崎保の鋳物師(大工妙寛作)の製作である事実を解説する資料を添付。
会津高田町教育委員会の資料添付。
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