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美しい味と書いて美味と表すが、その美を紡ぎ出す手の持ち主を、またひとりご紹介しようと思う。
明治二十七年から百年以上続く菓子舗は、三条の街中にひっそりと佇んでいる。
通称、北三条駅通りに面したここ鶴遊堂では、典型的な町屋の造りである店の奥で、職人が今日も黙々と美味を生み出している。
菓子職人、袖山十一は父親の死去により、入学したばかりの三条高校を一月で中退し、働きに出た。
縁あって、一之町にあった菓子舗である万屋[よろづや]に弟子入りし、以来この道を五十年以上に渡り、歩いてきた。
当時はもちろん、文字通り朝から晩まで。 朝は五時半に起き店の掃除から始まり、毎晩夜の十時まで働いた。弟子入りした小僧なんて、給金もなかった時代である。いくら奉公中でも、祭りと盆暮れには休めそうなものだが、菓子屋はそうはいかない。かえってそういう時が忙しいのだから。
やがて、材料の仕入れから一切合切を任されるようになってきていた。店からの信頼も厚くなってきていた。
「あっちに曲がり、こっちに曲がり、人の倍くらいかかったね…」
誰かが教えてくれるなんてことはない。流しの職人や先輩の技を盗もうと、材料の調合や分量を覗き見しようとしても、測った秤の目盛をさっと戻されたりと、それは苦労して覚えていった。
「そんな苦労が、今、生きている…」語る職人の口調は、あくまで柔らかい。
さて、ここに小さな冊子がある。大正十年に三代万吉が歴代を著したものだ。
これによると鶴遊堂は創業当初、鶴祐と名乗っていたようだ。 先代が修行した鶴屋と、初代祐吉の頭文字を取って名づけたらしい。いつの頃からか鶴遊と名前が変わっていった。初代は綿反屋を営んでいたという。
三代万吉が興した菓子舗も、昭和三十二年、四代目の死去により鶴遊堂は消滅寸前だった。しばらくはかつて出入りしていた職人が、交代しながら手伝っていた。
店も閉じんとしていたその時、跡を継いだのが当時万屋にいた十一だった。この縁によって鶴遊堂は救われる。
当時、洗練熟達の技を競う、工芸菓子造りの分野でも活躍するほどの腕前になっていた十一は、こうして鶴遊堂を再建させていくことになる。
三代目に始まった菓子舗も、いい時代を過ごしてきたといえるだろう。
当時から郭の多かった三条の町は、菓子の需要も多かった。 注文を受け配達に行くと、旦那衆からお駄賃を渡されるような、まだ粋という言葉がある時代だった。
そんな中で、材料を吟味し、最高の技術で味に拘る十一の菓子は、郭の中でも評判だったであろう。いい時代であった。
やがて昭和四十年代から洋菓子が流行り、一気に菓子は大衆化した。発泡剤を入れた大量生産の菓子が巷に溢れ、昭和五十年代になり多くの式場が乱立するようになると、手作りで丁寧な仕事を必要とする菓子は、その出番が少なくなっていった。
十一はそんな菓子とは競争をやめた。手作りなものだから、元来そう大量にはできないし、人口香料を使わず、柚子をイチヂクをそのまま使う十一の菓子は、かねてからの馴染みのお得意様に向けて特化した。
今では和菓子でさえも手作りでやっているところは、ごく少ない。同じ品質、同じ味の素材をどこでも使い、包装さえロボットがやる時代になってしまった。量産化、機械化というのは結局機械に合わせるもの作りである。専用の材料で、専用の機械で…そこには職人の思いなんてものは込められない。どこで食べてもどんな店でも、そんなに味も変わらなくなってしまった。
「本物の味を大事にしていかんきゃねえ…」
餡の甘さも匙加減だけで決まるのではなく、練り方で甘味も食感も変わってくるのだという。 機械でただ練るのと、そこに職人の手が介在するのかどうかは、味にとって決定的な差を生み出してしまうのだ。
まるでパンのようなフカフカなケーキに慣れさせられた我々には、材料を惜しみなく使い、黄身の味がしっかり残った干菓子の奥深さを忘れている。昔ながらのしっとりとしたスポンジの味わいを忘れている。柿やイチヂクの持つ、自然の滋味甘味を忘れているのではないだろうか。 |